11 雨乞い

11 雨乞い

 農家にとって天候の良し悪(あ)しは作物の出来具合に大きくかかわるので、不順な時などは神々に豊作となることを祈りました。雨乞いもその一つで、カラカラの天気が続くと行ないました。

 村のおもだった人によって雨乞いの日が決まると、その前日に足の丈夫な若者二人が青梅の御岳神社に行き御師(おし)の家に泊ります。
 翌朝、神主にお祓(はらい)いをして頂いた、七代の滝の水が入った竹筒を背負って帰ります。休むとそこに雨が降ると言われ、ひたすら歩き続けねばならず、そのため、途中で三回位交替すると、お昼過ぎ頃竹筒が地元の神社に届きます。境内にしつらえた〆縄(しめなわ)の下にゲンバ桶で水を汲み入れた「半切り」と云う大きなタライが四つ備えてあります。

 神主がお祓いをしてから半切りの中へ竹筒の水をそそぎます。そこで身を潔めた裸の男達が「さんげ、さんげ、六根清浄(ろっこんしょうじょう)」と言いながら、半切りの水をお互にかけ合うのです。
 ここでにわかに黒雲が出てポツリポツリと落ちて来るようならば、雨乞いは大成功ということになります。この雨乞いはとても効き目があって数日後には本当に降ってくることが多かったそうです。それは雨降りを待ちに待った末に雨乞いをするので、その頃には空の方も降る気配になっていたらしいのです。

 明治の頃には芋窪の豊鹿島神社では、この時に「獅子舞」を奉納したということです。

 また、高木や清水では所沢の水天宮に行ったこともありました。狭山では「井ノ頭の弁天様」へ水を貰いに自転車で行ったこともありました。昭和二十二年の干魃(かんばつ)の時には、貯水池の水がすっかり干上ってしまう程でした。この時狭山では雨乞いをやりましたが、最初は効果がなく、再び雨乞いをしたところ忽ち降って来たということもありました。蔵敷には御岳神社の分社が祀られていて、そこのみたらしの湧水をいただいて来て、熊野神社の境内で雨乞いをやりました。
 終ると百姓大蓋といわれる家から届いたねぎらいのお酒で酒盛りをしました。
 このあたりでは豊鹿島さまで行なわれたのが最後となりました。
(東大和のよもやまばなし p26~27)

おみたらしp36 11


東大和市史資料編9p106

雨乞い
 気象条件だけが頼りだった昔は、旱魃のこの時期には、雨乞いが盛んに行われ
た。嵐で全滅するということはなかったが、日照りはじりじり焼けて、地割れが
でき、作物は枯れてしまう。特に出穂前の陸稲は弱く、実らないで白い穂になっ
てしまうから、こうなっては一大事である。そこで村中が寄って雨乞をするので
ある。三、四人の若者が御嶽山や、井ノ頭弁天に行って水を貰ってくる。御嶽山
は御師の家に寄り、竹筒を頂いて七代の滝に下り、竹筒に水を汲み入れて、休ま
ずに地元に持帰った。

 御嶽までの十七、八キロメートルの道を歩いて大変な苦労をして行った。帰路休息しては
ご利益がなくなるといわれて、途中二三ヶ所に交替の者が出て、中継して運ん
だという。早くから自転車は利用されていて、当時の青年はみんな自転車で、お
水を貰いに行った経験をしている。ケーブルが開通して麓からは大変楽になった。
昭和二十一、二年ごろからはオート三輪で行った。

 狭山では御嶽に行くより、近いということで井ノ頭弁天に行く方が多かった。

 地元の神社では大盤、あるいは半切を用意して水を汲んでおき、帰ると神前
で水の神、雲の神に祝詞(のりと)を上げて、竹筒
の水を注ぎ入れて、若い衆が十五六人裸で「さんげ、さんげ、六根清浄」を唱え
ながら水を掛け合い祈った。あとは社務所で酒が出た。

 鹿島様でやると、きくといわれたが、ちょうど雨が降るころだろうといわれる。
直後に大雨の降ってきたこともあった。不思議に二、三日中には雨が降ったとい
う。 

 雨が降ると赤飯を炊いてお祝をした。農家の骨休みにもなった。
 蔵敷の熊野神社では裏のみたけさまの湧水を桶に入れて、小平の神明宮から神
官に来てもらい雨乞いをした。

 狭山はニツ池の栓を抜くと雨が降るとよくいわれた。「栓を抜いたぞ」と村中
に知らせると、各家では田に水の具合を見て廻った。下の田までは二昼夜位かか
ったという。